【山﨑先生経歴】
一.出生及び生育地
昭和2年(1927年)5月31日
神奈川県横浜市中区
一.学歴
老松生小学校附属幼稚園、同小学校、横浜第三中学校、海軍兵学校、旧制第一高等学校.旧制東京大学法学部
一.職歴.
昭和28年厚生省入省 昭和54年退職。
保健局、官房総務課、公衆衛生局、薬務局、官房人事課、環境衛生局、社会保険庁、社会局、環境衛生局水道環境部に勤務。
なおこの間、出向により、佐賀県警察本部、福岡県警察本部、鳥取県庁、沖縄・地方対策庁、環境庁、総理府内閣総理大臣官房に勤務する。
厚生省退職後の勤務先として、医薬品副作用被害救済基金、農業者年金基金、日本証券業厚生年金基金、長寿科学振興財団、高齢者医療、高齢者福祉関係等の団体役員を勤める。
一.武道に関する事象,
横浜三中入学と同時に同校剣道部に入部し、県下中等剣道大会等で優勝等の好成績を収める。
海軍兵学校にても課業外時間において居合等をたしなむ、また剣道参考資料に出逢う。
第一高等学校にて撃剣部(剣道部)に入部するも、肋膜炎罹患のこともあり.剣道禁止令も相まって、実技には無縁の生活であったが.石田和外先生(注1)の存在、並びに、無検証(注2)のことを知る。
昭和28年、社会人となり第一生命相悟道場の水曜朝稽古に参加するようになる。もっとも新米社会人なので出席率は低かった。
昭和37年、福岡県警から厚生省に帰り、このころから第一生命の水曜朝稽古へ本格的に出席し、以後道場は第一生命から検察庁へ変わるも、継続して出席する。
昭和39年頃 三尺二寸の竹刀の存在を知り.これを用いるようになる.
昭和40年頃から 石田和外先生に就いて一刀正伝無刀流の組太刀を習う。
昭和50年頃から宝蔵院流槍合せの型を習い始める。またこの頃、直心影流法定の型にも親しむ。
昭和51年 石田和外先生が無刀流の正統を村上康正先生に伝授されたことにより、以後.当時の関係者5名程で無刀流組太刀の温習会を始める(一刀正伝無刀流卯月会の濫觴(らんしょう:物のはじまり))。
また年に1回乃至2回程度 、石川県金沢市に村上先生を尋ね、あるいは金沢での合宿を実施する。
昭和51年(1976年)月刊剣道日本1976年8月号「〈特集・山岡鉄舟〉」誌上において、一刀正伝無刀流の正五典の組太刀が掲載される。(打太刀/石田和外、仕太刀/山﨑卓)
昭和53年(1978年)2月19日、第1回日本古武道演武大会(於.日本武道館)にて一刀正伝無刀流の組太刀を演武(打太刀/村上康正、仕太刀/山﨑卓)。
昭和53年(1978年)7月19日 全生庵開基 山岡鉄舟居士毎歳忌法要(山岡鉄舟先生逝去90年忌・於 谷中 全生庵)に出席。
・打太刀/山﨑卓、仕太刀/井崎武廣
により、組太刀一つ勝5本目までを奉納。
・打太刀/村上康正、仕太刀/山﨑卓
により、正五典を奉納。
(挨拶:石田和外(鉄舟奉賛会会長)、
講演:牛山栄治、
法話:稲葉心田老師)
昭和54年頃、草鹿浅之介先生(注3)とも親交を結ぶ。
昭和57年4月11日に「一刀正伝無刀流卯月会」を発足させる。
昭和58年「香川善治郎伝無刀流秘録」の著者・森川竜一氏と資料提供を通じて親交を結ぶなど、一刀正伝無刀流の歴史研究の分野においても協力した。
昭和60年に旧制一高撃剣部伝の宝蔵院流高田派槍術および、一心流薙刀術の稽古会「槍の会(忠徳会)」を発足させ、今日に至る。
平成20年5月31日 淑徳大学主催の公開講座「山岡鉄舟と剣法無刀流」にて、一般の方々を対象に講義を行う。
山﨑先生は、最晩年に至ってもなお、流儀に対しての考察と探究心は止むことを知らず、独自の研鑽を続けた階梯を著作物に記した。また弟子達に対しては、流儀に対しての設問を与え鼓舞し続けた。
令和2年(2020年)4月13日 永眠される(享年92歳)。
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【著書】
一刀正伝無刀流組太刀三十六本仕法解説(鶴巻企画 2010)
一刀正伝無刀流雑記(鶴巻企画 2011)
宝蔵院流高田派槍術槍合せの型指南心得帳(鶴巻企画 2012)
剣の奥義に至る階梯 : 無刀流組太刀三十六本の眼目を説く(鶴巻企画 2012)
一刀正伝無刀流における技術の一端 : 一刀の扱い方と姿勢・動作のこと(鶴巻企画 2015)
「一刀正伝無刀流雑記」附録の組太刀の文章化の試み並びに同流に係る随想三篇(鶴巻企画 2018)
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【寄稿】
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注1:石田和外先生(1903年5月20日~1979年5月9日)…裁判官(第5代最高裁判所長官)、剣道家(第2代全日本剣道連盟会長、一刀正伝無刀流第5代、小野派一刀流は笹森順造氏より免許皆伝皆伝)、政治活動家、英霊にこたえる会創設者。旧制第一高等学校(旧制一高)出身。昭和12年ごろより旧制一高撃剣部OB会「弥生会(弥生倶楽部)」の中心人物となり、第一生命ビルの相悟道場において剣道・一刀正伝無刀流・小野派一刀流・直心影流・宝蔵院流高田派槍術・一心流薙刀術などの稽古会を行っていた。
注2 :「無検証」とは「検証無し」、即ち「審判者無し」ということである。「無検証」とは、「簡単に言えば、自ら潔うするに何ぞ他人の容喙(ようかい:横から口を出すこと)を要せんや、というのがその理由で、相当の域に達した以上、試合に際しても審判者なしで、自分で勝敗を判定しようとするものである。
注3:草鹿浅之介先生(1900年10月25日 〜1993年8月11日)は、最高裁判所判事であり草鹿龍之介先生(4代)の実弟でもある。草鹿先生は昭和54年当時、香川善治郎先生(2代)、及び石川龍三先生(3代)のお2人から、稽古をつけて貰われた唯一の生存者であった。