一刀正伝無刀流と山岡鉄舟先生について

一刀正伝無刀流と山岡鉄舟先生について

一刀正伝無刀流いっとうしょうでんむとうりゅうは、戦国時代末期~江戸時代初期の兵法家で「一刀流いっとうりゅう」兵法を創始した「伊藤(伊東)一刀斎景久いとう       いっとうさい かげひさ」と、その道統を受け継いだ「小野次郎右衛門忠明  おの じろうえもん   ただあき(旧名:神子上典膳みこがみ てんぜん)」の流れを今に受け伝えている古流剣術(古武術)の流派です。

また、当流は幕末~明治期にかけて一刀流諸派を学んだ山岡鉄太郎高歩やまおか てつたろう たかゆき(居士号:鉄舟、天保7年6月10日〈1836年7月23日〉生~明治21年〈1888年〉7月19日没)を開祖としています。

壮年期の山岡鉄舟

山岡鉄舟は明治期に東京四谷の自宅に「春風館しゅんぷうかん」道場を開き、多くの門弟達に撃剣・組太刀を指導したことにより、一刀正伝無刀流は大いに栄えました。
現在もその道統は複数の系統に受け継がれ、稽古が続けられています。

***

開祖である山岡鉄舟は弘化元年(1844年)9歳のころより神陰流(真影流)の久須美閑適斎に学び、10歳からは北辰一刀流の井上清虎に学びました。

その後、江戸の北辰一刀流開祖・千葉周作のもとで稽古を重ね、他にも練兵館(神道無念流)の斎藤弥九郎、士学館(鏡新明智流)の桃井春蔵、柳剛流の岡田十内といった名だたる道場を広く訪ね歩きました。

安政3年(1856年)21歳のころには幕府の講武所の世話役に取り立てられるなど、若くして剣名を知られた人物となります。

元治元年(1864年)鉄舟29歳のとき、一刀流の名人・浅利又七郎義明(一刀流の名門・中西家4代目の中西忠兵衛子正の次男。浅利家の養子)と出会い、修行の大きな転機を迎えます。鉄舟は浅利義明を今生の師と仰ぎ、さらなる修行を積みました。

その後、明治13年(1880年)3月30日、45歳のときに鉄舟は大悟徹底し、浅利義明に修業の成果を披露したところ、十分に一刀流の術理に達したと認められ、浅利家の一刀流を受け継ぐとともに、自らの流派である「無刀流」を創始して東京四谷の自宅に「春風館道場」を開きました。道場では多くの門弟達に撃剣と組太刀を指導したことで、大いに栄えました。

***

一方、鉄舟は修業のなかで、自らが学んできた一刀流の組太刀が伝書の内容と一致しないことに疑問を持ち、修行の傍ら「一刀流本元(徳川幕府師範家)の小野家 ※注」として知られていた小野次郎右衛門忠明の末裔を探していました。

※注 一刀流は開祖の伊藤一刀斎から小野次郎右衛門忠明に伝わった後、忠明の弟(長男とも伝わる)である「伊藤忠也の系統(忠也派一刀流・忠也流)」と、「小野本家(末子の小野次郎右衛門忠常の系統」に分かれました。この小野本家の系統の一刀流について、小野家では上にも下にも何もつかない「一刀流」と呼称します。

また諸説ありますが、江戸期の文献では忠常以降の小野家の後継筋に通じる系統を示して「小野派一刀流・小野流」とする記載が見られます。この他にも梶派一刀流や北辰一刀流、甲源一刀流など、一刀流系統の剣術は多くの遣い手によって無数の分派・分流を生み出し、新陰流系統とともに日本の剣術における最大規模の流派として栄えました。

明治17年(1884年)、鉄舟は小野家の9代目であり最後の当主であった、小野次郎右衛門忠政(明治元年から小野業雄おの なりおと改名し、知行地であった千葉県東金に隠棲していた)を探し出しました。

同年8月8日、鉄舟の春風館道場に招かれた小野業雄(当時65歳)は、小野家伝の一刀流組太刀を鉄舟一門に披露しました。鉄舟もその組太刀を見て長年の自身の研究と、手のひらを合わせた如く合致することに感銘を受けたと伝わります。

鉄舟とその弟子たちは小野業雄より組太刀の相伝を受け、明治18年(1885年)2月、山岡鉄舟は小野業雄から一刀流10世の道統と、小野家伝の道具・伝書類を継承し、ここに「一刀流の正しい伝を継承した」として、流名を無刀流から「一刀正伝無刀流」と改めました。

一刀正伝無刀流は、鉄舟が明治21年7月19日に急逝したため、その高弟の一人である香川善治郎(2代)に受け継がれました。その後も石川龍三(3代)、草鹿龍之介(4代)、石田和外(5代)、村上康正(6代)、井﨑武廣(7代)らの他に、当会の山﨑卓など、後継者達に受け継がれ現在まで続いています。

***

また山岡鉄舟は剣術家としてだけでなく、幕臣(江戸城無血会城での働き)、明治政府の重職(静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、明治天皇侍従、宮内大丞、宮内少輔)としても大きな働きをしました。

鉄舟の探求は多岐に及び、禅の修行が剣を修める為に重要であると考え、禅の五和尚(長徳寺願翁、龍沢寺星定、相国寺独園、天竜寺滴水、円覚寺洪川)に参じました。特に滴水和尚からは剣術開眼に関して大きな影響を受け、明治10年には滴水から禅の印可を受けています。

さらに鉄舟は書の名人としても知られ、飛騨高山の書家・岩佐一亭の元で学び、弘法大師流入木道52世を受けました。人から頼まれれば誰であっても断らずに書いたと伝えられ、一説には生涯に百万枚もの書を揮毫したと言われており、それらは今も日本各地に存在しています。